やにうさぎの雑記帳~140字じゃ語れない~

某呟きSNSには入りきらない思いやなんかを書いています。

【新年度】年明けくらいから年度末まで【学位取ったってさ】

お久しぶりです。らぼうさぎでした。
なんとなくのブログ更新です。最後の記事は去年の夏あたりですね。ホントにほっときぱなしでした。

というのも、僕自身、博士課程の最終年度(4年目だけど)で、D論やら公聴会やらでばたばたしていました。
特に、2017年になってからは

本審査申請とD論提出(1月頭)→就職活動と公聴会(2月初頭)→卒論発表指導(2月半ば~末)→引っ越し準備(3月中)→サンプル・データの引き渡し(3月末)→学位記交付式と引越し(3月末)→荷解きと生活基盤の確立(3月末~4月頭)と怒涛の3か月間を過ごしていました。

公聴会には、大学外から様々な方に来ていただきました。本当にありがとうございました。あれだけの人数の方が来るとは思ってもいなかったので、本当にうれしかったです。

そして、やっと、博士(理学)を取得することができました。
4年かかってしまいましたがね、でもここまでこれたのでホッとしています。

 思えば、D1の2013年の10月25日、朝、突如起き上がれなくなったところから、全てが始まったような気がします。あの時まで、僕はまさに脳みそ筋肉のムキムキマッチョマン、みたいなやり方で学生時代を送っていたような気がします。

「大学に来ないB4でも、化学の楽しさを伝えられれば、絶対に来るはずだ」という指導教授((゚Д゚)<)の戯言を真に受けて、後輩指導に、注げるだけのリソースを突っ込んでやっていた矢先でした。ぶっ倒れて使い物にならなくなりました。

あの時、僕は一度死んだような気がします。そこから、復帰する12月1日まで、僕はひたすら泣いて過ごしていました。
俗にいうアカハラが、僕の不調の引き金でしたが、そういうものに対して、大学組織というのはあまりにも鈍感だったし、積極的に介入できるようにはできていませんでした。指導教授がノーと言えばなにもできないという始末。

ですが、あの時、相談に乗ってくれ、様々な手を尽くしてくれた大学関係者の皆様には、とても感謝しています。あれがなければ、僕は立ち直れませんでした。

そして、なによりも僕を救ってくれたのがTwitterとそこで出会ったみなさんでした。

出会い方が「いまどき」のSNSを介したものであったとしても、実際に会った方々が、組織も住む場所も違う、いち学生の僕に、助けの手を差し伸べてくださったことは、本当に忘れられません。

それがあって、僕は、こうして、学位をとることができたのです。

決して、自分ひとりでは立ち直れないような局面を、さまざまな人の手助けによって乗り越えて、こうしてここまでこれたのです。

 

実際にお会いしてお礼を言ったり、メールなどをお送りしているのですが、この場を借りて、もう一度。

本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。

あの2013年、本当に死ぬしかないんじゃないかと思いつめていた僕が、また立ち直り、這い上がり、学位を手にできたのは、僕を助けてくださったすべての方々のおかげなのです。

 

こんな回顧録めいたものを書いていますが、指導教授の呪いはここで終わりです。

今度は、(゚Д゚)<の呪縛から逃れて、自分が身に着けたものを、新しい環境で発揮する段階になりました。

今後は、日本の片隅のどこかで、ひっそりと働きながら、学生時代の経験をどこかに活かせたらいいなあと、考えています。

新しい環境で求められる仕事をするのはもちろんなのですが、アカハラの対応や、院生が抱え込みがちな学部生指導など、僕のつらかった経験と同じような悩みを抱えた現役の学生さんの手助けになれるような情報を流すのが、僕の次の役割なのかな、とぼんやり考えています。

その役割こそ、どん底の僕を助けてくれた人たちがになった役割そのものなのかもしれないと思います。

僕に助けの手を差し伸べてくれた方々は、異口同音に、こう言っていました。

 

「自分がかつてしてもらったことを、君にしているだけだ。僕らの世代に返さなくていい。返したいのであれば、自分の後に続く人に返しなさい。人生は順送りだ。」

 

次は、僕の番です。

まだ、新しい生活が始まったばかりで不安定ですが、落ち着いてきたら、できる範囲で、少しずつ「お返し」をしていきますね。

 

今後は、明るい話題を、このブログにちょこちょこと書けたらなあ、と思います。

 

それでは。